ロータス・ルノーGPでヴィタリー・ペトロフのレースエンジニアを務める小松礼雄が、自身のキャリア、そしてF1日本GPにむけてインタビューに答えた。ラフバラ大学で自動車工学を専攻するために1994年にイングランドに渡った小松礼雄は、その12年後にエンストンで働き始めた。初のF1日本GPに参加してから5年後、小松礼雄が改めて母国GPへの想いを語った。
日本GPの思い出は?日本GPの最初の記憶は、子供だった80年代後半に見たときですね。セナがプロストと戦っていたのを鮮明に思えています。1989年に彼らはシケインで接触して、翌年はターン1で接触しました。その両方のイベントでチャンピオンシップが決定したので、スポーツにとっては本当に忘れることのできない時間でしたね。日本GPはいつもシーズン終盤でした。カレンダーの最後か最後から2番目だったので、チャンピオンになったチャンピオンが栄誉を授かっていました。それが観る者にとって特にレースを特別なものにしていました。80年代後半にそのようなレースを観たことが、F1でのキャリアを歩みたいというきっかけになったのは間違いないですね。F1への旅が始まったのはいつですか?18歳まで日本で育ちました。高校を卒業したとき、F1で働きたいと思っていました。イングランドはその夢を追い求めるための明白な場所でした。大部分のチームがそこにいましたし、モータースポーツの本場として知られていました。いずれにせよ英語を学ぶ必要がありましたしね。日本にもいくつか国内のモータースポーツがありましたが、僕は視野を広げて、国際的に物事を考えたいと思っていました。それで「よし、イングランドだ」と思ったんです。1995年、スポーツとエンジニアリングの両方で有名だったラフバラ大学に自動車工学を学びにいきました。始めるには最適な場所だと思いました。第一歩がラフバラ、そのあとBARホンダ、そしてエンストンですよね...その通りです。最初の仕事は2003年のBARホンダでした。そのあと2006年にテストチームのタイヤエンジニアとしてエンストンに移籍しました。2007年にレースチームに異動になって、富士で初めて日本GPで働きました。日本GPに参加することは僕にとって非常に特別なことでした。家内、母親、友人が働いている僕を観に来てくれましたし、個人的にも非常に特別な瞬間でした。94年にイングランドに渡ったとき、僕の家族は僕のやりたかったことを理解してくれました。でも、日本に戻って、彼らにまさに僕がしていることを説明できることは本当に特別なことでした。彼らは僕が関わるまでモータースポーツについてあまり理解していなかったので、電話で聞かされるよりも直接僕がやっていることを見せることができたのは良かったです。その年以来ずっと戻ることが大好きです。今年は家内が鈴鹿に来てくれます。雰囲気を見てもらえるのは家族にとっても良いことですね。今年のレースは、以前の年よりも感情的になると思いますか?そうですね。今年起こった地震は、日本そして日本人にとって本当に悲劇的で非常に悲しい出来事でした。バーニーが東北地方の方々を招待したと聞きました。それが本当なら素晴らしいことですね。皆さんの気持ちを明るくさせるようなイベントになることを願っています。様々なスポーツが中止になったとの話がありましたが、日本人は楽しんでお祝いする何かを望んでいるので、2011年の日本GPがそうなってくれることを願っています。