映画『F1/エフワン』の配信開始に合わせ、ライフスタイル&カルチャー分野の寄稿者エスメ・バクストンが、架空のF1チーム「APXGP」を短期間で現実に溶け込ませた舞台裏を追った。衣装デザイナーのジュリアン・デイが、チームのアイデンティティ、カラー、レーシングスーツ、そして“ファン文化”までをいかに作り上げたのかを語る。
数か月でF1チームを丸ごと作るという挑戦衣装デザイナーのジュリアン・デイが映画制作に参加した際、直面した課題は前例のないものだった。通常、F1チームは創設からグリッド参戦までに何年もかけてアイデンティティやユニフォーム、ブランドを構築する。だがAPXGPには、その時間がなかった。翌年からF1参戦を予定するキャデラックでさえ、5年以上の準備期間を費やしている。一方デイには、グランプリ週末のパドックでも違和感がなく、なおかつスクリーン上で際立つ“本物らしさ”を、わずか数か月で形にする必要があった。結果として、APXGPは2023年と2024年の実際のF1週末に自然に溶け込み、洗練された美学とリアリティを兼ね備えた存在として成立した。複数の一流ブランドやメーカーの協力を得て、チームキット、レーシングスーツ、公式マーチャンダイズまでが統一感のあるビジュアルで整えられた。本物を目指したレーシングスーツの創造APXGPの象徴的なルックにたどり着くまでの道のりは平坦ではなかった。デイはまず、アストンマーティンのレーシングスーツも手がける伊レーシングウェアメーカーOMPにアプローチし、複数のカラーバリエーション案を制作。それらを俳優のブラッド・ピット、ダムソン・イドリス、そして監督のジョセフ・コシンスキーに提示した。「ブラッドのフィッティング中、なかなかチームカラーが決まらなかった。そこで、持ってきていたシルバーがかった白とグレーのスーツを思い出した。全員が見た瞬間に“これだ”となった」とデイは振り返る。黒すぎれば“ダース・ベイダー的”な印象になり、白すぎればヴィンテージ感が強くなる。その中間に位置するシルバー・ホワイトは、ダークトーンのマシン、白を基調としたガレージとも調和し、実際のグリッドの中でも際立つ色となった。ピットや走行シーンで着用されたスーツは、OMPの最新耐火技術を採用したONE-S仕様で、すべてFIA公認。実戦と同等の安全基準を満たしていた。スポンサー表記にも現実のF1同様、極めて厳密な管理が求められた。「ロゴが2ミリ大きければ10万ポンド追加されることもあるし、小さすぎたり位置が違えば問題になる」。撮影期間中にスポンサーのブランド更新があり、ロゴ配置が変わった例もあるという。注意深く見れば、シーンごとの差異に気づくかもしれない。印象的なピットクルーキットピットクルー用ユニフォームの着想源として、デイは意外な存在を挙げる。「メルセデスの本部に招かれて、彼らの取り組みを見せてもらった。黒と白の使い方が完璧で、それを参考にした」。オールブラックのピットクルーキットは、視覚的にも機能的にも意味があった。ドライバーが際立ち、観客の視線を自然に主役へ導く効果があったからだ。素材面でも現代F1の進化が反映されている。最新の耐火素材はシャツのように薄く、それでいて完全耐火。撮影用でありながら、実戦仕様と変わらないクオリティが追求された。細部に宿るリアリティブーツ、ノーメックス製下着、グローブ、バラクラバに至るまで、すべてがプロ仕様。ただし撮影特有の調整も必要だった。「カメラが目を捉えられるよう、バイザーは十分な大きさが必要だったが、安全性も確保しなければならない。ヘルメットが頬を押しつぶさないような工夫もした」。現場には、俳優のバラクラバ位置を整える専任スタッフまで配置された。プロデューサーでもあるルイス・ハミルトンが初めてスーツを見た際、「自分のものより軽い」とコメントしたという逸話は、最新素材がもたらす進化を象徴している。存在しないチームの“ファン”を作るAPXGP最大の仕掛けのひとつが、架空チームのファン文化だった。制作チームは大量のマーチャンダイズを製作し、実際のレース会場で配布。インタビュー撮影時には、周囲にAPXGPキャップやTシャツを着た人々を配置し、自然な応援風景を作り出した。物語の進行に合わせ、ファンの数も増えていく。物語序盤では無名の存在として描かれ、勝利を重ねるにつれて支持者が増える。その変化が観客にも無意識のうちに伝わる設計だった。前例のないグランプリ週末での撮影2023年と2024年の実際のF1週末に、FIAとF1の全面協力のもと撮影が行われた。ハンガリー、シルバーストン、モンツァ、さらにはラスベガスでは深夜3時に走行シーンを撮影。フランスのポール・リカール、テキサスのCOTAでも撮影が続いた。2023年のSAG-AFTRAストライキによる遅れを補うため、制作は2024年まで延長された。最大の緊張は、イギリスGPのフォーメーションラップで実際のグリッドを2台のAPXGPマシンが追走した瞬間だった。「もし1台でも止まれば、実際のレースが変わってしまう」。制作陣は万全を期し、事態を回避した。デイはこの経験を「二度と起こらないだろう」と表現する。F1という巨大な興行のスケジュールに、映画制作が入り込むという前例のなさを強調した。すべてを結びつけるためにデイの狙いは、細部が主張しすぎず、全体として“本物”に見えることだった。レースチーム、パドック、観客、そのすべてを一貫した世界観で包み込み、違和感のない映像体験を作ること。それがAPXGPの成功につながった。映画は2025年6月に公開され、批評・興行の両面で成功を収めた。APXGPは単なる架空チームに留まらず、トミー・ヒルフィガーとのカプセルコレクションを通じて、F1ファンのファッションにも影響を与えた。いま、オフシーズンに自宅のソファから『F1/エフワン』を見返しながら、APXGPのキャップやウェアを身につける。そんな楽しみ方が成立していること自体、この架空チームがどれほど“現実”に近づいたかを物語っている。