本田技研工業は、F1の活動60周年を記念して、1965年10月24日のF1メキシコGPでRA272によるホンダ F1初優勝の模様をカラー映像を公開した。60年前の今日、1964年8月2日。1961年マン島TTレース制覇からわずか3年、初めて四輪車を発売した翌年、ホンダは四輪でも世界の頂点F1に挑戦した。
ホンダ RA272は、日本初の純国産F1マシンとして開発され、V型12気筒エンジンを横置にレイアウトした独自の設計により、1965年のF1メキシコGPで初優勝を果たす。日本の技術力の高さを世界に知らしめた歴史的名車である。ホンダ RA272(1965年)ホンダは四輪事業進出に先立ち、二輪車レースで既に世界制覇を成し遂げた経験と、「難しいものから先にやる」「真似をしたくない」という本田宗一郎氏の信念から、四輪車レースの最高峰であるフォーミュラ・ワンに挑戦することを決定した。当初は、他チームへのエンジンの供給から始める計画であったが、1964年のシーズン開幕直前に供給契約が唐突に破棄されたため、自ら車体も製作してホンダチームとして独力で参戦することを決断した。この時開発された車両がRA271であり、RA272はRA271の実戦経験を元に改良した1965年モデルである。準備したエンジンは、二輪レーサーで実績のある設計を踏襲し、横置き 6 気筒のシリンダー容積を拡大してV型12気筒とし、変速機と一体のケースに収めていた。出力は圧倒的であったが横幅が大きく、従来の車体後部にエンジンルームを設けてそこに格納する方法では、車体幅が広くなり、空気抵抗とサスペンション設計上不利であった。車体は、当時はまだ鋼管構造が一般的であったが、一部のチームが薄板構造のモノコックボデーを採用し始めており、ホンダも薄板構造でいくことにした。しかし、この構造でエンジンルームを作るとクルマの横幅は、鋼管構造の場合より一層大きくなりレーシングカーとして成立しない。そこで、車体をドライバーの直後で切断し、エンジンユニットを鋼管トラスで車体に結合し、後輪懸架装置は変速機部分に取り付けた鋼管フープに結合する、という先例のないレイアウトを採用し、車体幅をほぼエンジン幅に抑えて課題を解決した。RA272は、この基本レイアウトを踏襲し、軽量化と整備性の改善を行なった車両である。1965年シーズンは、入賞を果たせるようになったが、夏を迎えて、速度の上昇に伴うオーバーヒートの傾向と操縦性安定性の不満が明らかになった。そこで、第 7 戦のドイツGPを欠場して、オーバーヒート対策としてエンジン出口部排気管の放熱改善のため車体後端とエンジンとの間隔を広げることと、操縦性安定性改善のため駆動出力軸の高さを維持してエンジンユニットを下方に回転して重心を下げるというレイアウトの大変更を敢行した。このために、鋼管トラスはフープも含めてすべて新作となり、エンジンでも、ユニットケースやオイルパン・オイルポンプに加えて、排気管も新作となる大作業であった。レース再開後、大改修後の初期トラブルを対処し、メキシコ・グランプリに参戦、ここでは、殿堂者の中村良夫氏が監督を務め、ホンダは満を持して二台のRA272でエントリーした。リッチー・ギンサーの 1 号車は、スタート順位 3 番から 1 周目でトップに躍り出て独走態勢のままフィニッシュ、見事勝利を勝ち取った。ロニー・バックナムの 2 号車も 5 位に入賞し、競技規則が排気量1.5Lでの最後のレースで華々しい成果を挙げた。エンジンを完全な強度部材にしたこの世界初のエンジン搭載法は、その後、BRMとロータスF 1の巨大なH16気筒エンジンで採用され、現在でも一般的なエンジン搭載手法となっている。我が国の自動車技術が今日ほど発展しておらず競技車用部品の国内調達が困難で多くを自製せざるを得なかった当時、エンジン・車体ともホンダ製で、参戦二年目で優勝した賞賛すべきこの実績を凌駕するものは、二度と我が国からは出現することはないと考えられる。(日本自動車殿堂 研究・選考会議)


全文を読む