1976年8月1日、F1史上最も衝撃的な事故のひとつとなったニキ・ラウダのニュルブルクリンク事故から50年を迎えた。炎に包まれたフェラーリ312T2から奇跡的に救出されたラウダは、生死の境をさまよいながらもわずか42日後にF1へ復帰。その驚異的な復活劇は現在もモータースポーツ史に残る伝説として語り継がれている。
危険すぎたニュルブルクリンクとラウダの警鐘1976年当時、ニュルブルクリンク北コース(ノルドシュライフェ)は全長22.8kmを誇り、高速コーナーや激しい高低差、ブラインド区間が連続する世界屈指の難コースだった。一方で、安全設備は現代の基準から見れば極めて不十分だった。コースが長大すぎるため、事故が発生してもマーシャルや救急隊が迅速に現場へ到着することは困難だった。当時GPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)の会長を務めていたラウダは、その危険性を誰よりも理解していた。決勝当日の朝、ラウダはドライバーたちを集め、レース中止を提案した。レース直前には雨が降ったものの、コース全体ではなく一部だけが濡れている難しいコンディションとなっていた。22kmを超えるコースでは場所によって路面状況が大きく異なり、ラウダは重大事故につながる危険性を強く懸念していた。しかし、選手権首位だったラウダに有利な提案だと受け止めるドライバーも多く、最終的な投票ではレース開催が支持された。ラウダはその決定を受け入れ、ジェームス・ハントと並ぶフロントローから決勝へ臨んだ。炎に包まれたフェラーリ決勝は大半のドライバーがレインタイヤでスタートしたが、1周目終了時には路面の乾燥が急速に進み、多くのマシンがスリックタイヤへ交換した。ラウダもピットインし、冷えたスリックタイヤで再びコースへ戻った。しかし2周目、ベルクヴェルク手前の高速左コーナーでフェラーリ312T2が突然コントロールを失う。原因はリアサスペンションのトラブルとする説が有力だが、正式に断定されたことはない。冷えたタイヤと乾き切っていない路面も事故の一因だったと考えられている。マシンはガードレールへ激突した後、コース中央へ跳ね返され、燃料タンクが破損して激しく炎上した。命を救ったドライバーたち衝撃でラウダのヘルメットは脱げ、コクピットは瞬く間に炎に包まれた。すぐ後方を走っていたブレット・ランガーやハラルド・アートルは炎上するマシンへ衝突。ガイ・エドワーズは接触を避けてマシンを止め、救助へ向かった。そして最も大きな役割を果たしたのがアルトゥーロ・メルツァリオだった。メルツァリオは迷うことなく炎上するフェラーリへ駆け寄り、自ら炎の中へ飛び込んでシートベルトを外し、ラウダをコクピットから引きずり出した。この救助でメルツァリオ自身も両手に火傷を負っている。ラウダは約1分間にわたって炎と煙にさらされ、顔や頭部に重度の火傷を負った。右耳の一部を失い、まつ毛や眉毛、まぶたにも深刻な損傷を受けた。さらに命を脅かしたのは、高温の有毒ガスを吸い込んだことによる肺へのダメージだった。病院へ搬送されたラウダは危篤状態となり、昏睡状態に陥ると司祭から終油の秘跡(最後の秘跡)を授けられた。医師たちも生存を確信できないほど深刻な状態だったという。一方、レースは再開され、ジェームス・ハントが優勝。ジョディ・シェクター、ヨッヘン・マスが続いた。エンツォ・フェラーリが動かした後任探し当時、多くの関係者はラウダが二度とF1へ戻ることはないと考えていた。そのためフェラーリ創設者エンツォ・フェラーリは、チームマネージャーだったダニエーレ・アウデットにラウダの後任探しを指示したと伝えられている。現地で事故を取材していたジャーナリスト、レオ・トゥッリーニによれば、エンツォは「未来を見据える」立場からすぐに代役の確保へ動いたという。アウデットはまずエマーソン・フィッティパルディへオファーを出したものの断られ、その後アルゼンチン人ドライバーのカルロス・ロイテマンとの契約をまとめた。この判断は、ラウダの生存すら危ぶまれていた状況で後任探しを始めたとして、当時のパドックで物議を醸した。誰も予想しなかった42日後の復帰しかし、誰も想像していなかった出来事が起こる。事故からわずか42日後の1976年9月12日、ラウダはフェラーリの母国レースであるイタリアGPでF1へ復帰した。頭には包帯が巻かれ、傷はまだ癒えていなかった。ラウダは後に、この復帰が恐怖に満ちたものだったと明かしている。それでもライバルたちに弱さを見せたくないという思いから、再びマシンへ乗り込んだ。あまりにも早い復帰だったため、ロイテマンとの契約を済ませていたフェラーリは、モンツァでラウダ、クレイ・レガツォーニ、ロイテマンの3台体制で参戦することになった。これはスクーデリア・フェラーリの歴史でも極めて珍しい出来事となった。ラウダは復帰戦で4位入賞を果たし、タイトル争いへ復帰。その年の世界選手権は最終戦日本GPまでもつれ込み、豪雨の富士スピードウェイでラウダが自らの安全を優先してリタイアを選択し、ハントがわずか1ポイント差で初のワールドチャンピオンに輝いた。ニュルブルクリンクでの炎上事故と、そこから42日後の奇跡の復帰は、半世紀が経った今もなお、F1史上最も壮絶で感動的な物語のひとつとして語り継がれている。
全文を読む