1992年の冬、アイルトン・セナは揺れていた。3度のF1世界王者であり、マクラーレンの象徴的存在でありながら、彼は愛するF1の進む方向性に強い不満を抱いていた。ウィリアムズはルノーパワーと先進的なアクティブサスペンションで独走状態。一方、ホンダ撤退後のマクラーレンはフォードのカスタマーエンジンで戦わざるを得なかった。その鬱積が、F1パドックに静かな衝撃を走らせる行動へとつながる。
砂漠で行われた“極秘テスト”1992年12月、アメリカ・アリゾナ州のファイアバード・レースウェイ。フェニックス近郊のこのサーキットで、セナはひっそりとチーム・ペンスキーのインディカー「PC21」に乗り込んだ。仲介役となったのは、親友で同じブラジル出身のエマーソン・フィッティパルディ。F1を離れ、インディカーで成功を収めていた人物だ。これは単なる好奇心ではない。電子制御や政治的駆け引きから解放された、純粋なドライビングの世界で、なお自分が支配的でいられるのか。その問いかけでもあった。別物のマシン、変わらぬセナシボレー製V8を積むPC21は、セナのマクラーレンMP4/7Aとは別世界だった。重く、肉体的負荷が大きく、トラクションコントロールもアクティブサスもない。求められるのは、メカニカルグリップへの理解、勇気、そして繊細さだけ。セナは冷静にブレーキングやスロットルレスポンスを分析し、限界挙動を探った。しかし、時間はかからなかった。数周で競争力あるペースに到達し、やがてペンスキー陣営を驚愕させる事態が起きる。初インディカーにもかかわらず、フィッティパルディの基準タイムを0.5秒上回ったのだ。当時のチーフエンジニア、ナイジェル・ベレスフォードはこう振り返っている。「彼はピットに戻ると『ありがとう。必要なことは学んだ』と言った。そしてマシンを降り、それで終わりだった」F1へのメッセージチーム創設者のロジャー・ペンスキーも、その意味を理解していた。「もしセナが本気で空いていたなら、我々は何とかしただろう。だが彼は、マクラーレンとの交渉を有利に進めるための“インパクト”として我々を使ったのだと思う」その洞察は的確だった。テストの噂はすぐにウォーキングへ届き、マクラーレンにとって明確な警鐘となる。レースごとの契約を結んでいたセナは、現実的な代替案を持っていた。選ばれなかったもう一つの未来インディカーは当時、黄金期にあり、ナイジェル・マンセルも1993年に参戦予定だった。インディアナポリス500は、セナにとって抗いがたい挑戦だったはずだ。だが最終的に、彼の心はF1に残った。フェニックスのテストは目的を果たした――選択肢の自由を証明し、圧力をかけるという目的を。マクラーレンは1993年に向けてフォードとの関係を強化し、セナは残留。その年、タイトル争いではウィリアムズに及ばなかったものの、彼はキャリア屈指の名勝負を次々と演じることになる。セナがインディカーをドライブしたのは、この一度きり。アリゾナの砂漠で行われた静かなテストは、今なお“もしも”を想像させる、F1史屈指の象徴的エピソードとして語り継がれている。