ホンダF1とアイルトン・セナの密接なパートナーシップは、F1の歴史上でも、もっとも輝かしい成功の一つと言えるだろう。最多チャンピオン獲得回数、そして最多優勝記録を保持しているのはミハエル・シューマッハだが、最も偉大なドライバーについてはファンの意見が分かれている。それは、偉大さの基準が数字以外にも数多く存在しているからだ。
ファンが最も偉大なF1ドライバーがだれかについて議論するとき、常に名前が上がるドライバーの一人が、アイルトン・セナだ。アイルトン・セナがいかに突出したドライバーであるかについては、彼が3度のチャンピオンに輝いたという事実だけでは語れない。マシンの限界を超えてその性能を引き出す走り、マシンのわずかな変化をも感じ取る感知能力、そしてスピリチュアルな独自の人生観すべてが、人々を魅了してきた。ホンダF1のテクニカルディレクターの田辺豊治は、彼の没後25年近く経った今でも、マシントラブルを克服してセナが成し遂げたホームグランプリでの優勝を思い起こすと言う。「雨の影響を受けたブラジルでのレースのことは覚えていますし、アイルトンが初めて地元で優勝した1991年のことは特に印象に残っています。最後の数周はギアチェンジができない状態でしたが、彼はトップでフィニッシュしてみせたのです」セナとホンダのパートナーシップは、ロータスがホンダエンジンを搭載するようになった1987年に始まった。当時、ウィリアムズがホンダの最新エンジンを優先的に使う権利を持っていたため、セナは前年型のRA166-Eを使用したが、それでもモナコGPとデトロイトGPでは連勝するなど随所で輝きを見せ、タイトル争いにも加わった。1987年のチャンピオンシップはウィリアムズの2人のドライバー、ネルソン・ピケとナイジェル・マンセルによる一騎打ちの様相を呈していたが、ホンダエンジンと共にマクラーレンに移籍した1988年からは、セナが再びタイトル争いに加わるようになった。最新のエンジンを使用できることになった、セナは翌年には禁止されるV6ターボを搭載した1988年型のRA168-Eを手に入れる。エンジンの進化を確認するため、セナとアラン・プロストはRA168-Eを前年型のシャシーに載せてテストを重ねた。そしてついにRA168-EがMP4/4に搭載されると、2人のドライバーがレースを席巻し始める。マシンに競争力があったことから、既にプロストが在籍していたマクラーレンにセナが加わるとすぐに、2人のライバル争いは激化していった。1991年にマクラーレン・ホンダのエレクトロニクス・エンジニアを務めていた岡田研は、ホンダとドライバーの関係に影響はなかったと考えつつ、その原因を次のように語ってくれた。「プロストはマシンのセッティングが得意な一方、セナはそこまでではなかったと、プロストとセナの両者と働いたことがある同僚に聞きました。セナはプロストのセッティングを真似するようになってからスピードが上がり、勝てるようになったそうです」「セナは我々のエンジンに関わる作業に対して非常に興味を示してくれたので、ホンダにとっては大きなモチベーションになりました。F1はやはりヨーロッパ文化の影響を強く受けているのですが、ヨーロッパ人ではないブラジル人と日本人にはF1という世界において似通った感じ方をするところがありました。日本人である我々とブラジル人のセナの間にはシンパシーがあり、それもプロジェクトを成功に導く要因の一つだったと思います」1989年はプロストがチャンピオンになりセナは年間2位に甘んじたが、セナが再びチャンピオンに返り咲くのに時間はかからなかった。1990年にはV10 RA109Eでチャンピオンになり、1991年にはV12 RA121Eで3度目のタイトルを獲得。3つの異なるタイプのエンジンでチャンピオンになったのは、セナを含めて未だ3人しかいない。アイルトン・セナがホンダに及ぼした影響はF1チーム以外にも及び、1980年代後半にはスーパーカーであるNSXの開発にも携わるようになった。プロジェクト後期にチームに加わったセナは、細かいディティールの調整やシャシーの剛性強化などに関してのフィードバックを開発チームに伝えた。完成したNSXを気に入ったセナは、自分用にブラックカラーの特別仕様車を購入。ナンバープレートには“BSS-8888”と刻印されていた。Bはセナの子供時代のニックネームであるBecoから取ったもので、それに続く2つのSは自身のフルネームであるSenna da Silvaを意味するもの、8888という数字は、セナがF1世界選手権で初めて勝利を挙げた1988年を記念してのものだった。NSXは、セナが愛したスーパーカーでした。モータージャーナリストのアンドリュー・フランケル氏は、1991年にシルバーストンでセナの運転するNSXに乗った体験を、今も忘れられないと話した。「セナがポルトガルの自宅用のNSX以外に、ブラジル用にももう一台を注文したことなどはあまり知られていませんが、それでも彼がNSXを愛していることはだれの目にも明らかなことでした」とフランケル氏は書き残している。「イギリスにおいて、NSXはパワーステアリングとオートマチック・トランスミッションを有する車として先駆け的な存在でした。セナがマニュアル操作でギアチェンジしながらハンガー・ストレートを時速200kmで駆け下りていると、V6エンジンがうねりをあげながらレブリミッターを跳ね上げているのが分かりました。パワーステアリングはこの車に適していましたが、オートマチック・トランスミッションはそうではなかったかもしれません。日常で使う車であれば、私は間違いなくオートマチック車を選ぶでしょう。しかし、NSXにはマニュアルトランスミッションこそがふさわしかったのです」「セナは話しながらギアをサードに入れると、片手はシフトレバーの上に置いたまま、NSXを自由自在に操っていました。我々はウォールに配置された広告の横を、時速約130kmで通過しました。セナは数ミリ単位で完ぺきなラインを、片手で軽々と走り抜けていたんです」「アイルトン・セナの運転するNSXの助手席に乗って過ごしたその日の午後を、私は忘れることはできないでしょう。彼はもちろん、残りのラップでもすばらしいハンドル捌きを見せていました。ただ、あの瞬間ほど、セナとほかの一流ドライバーとの間に存在するレベルの差を、私が痛烈に感じたことはありません」「彼がハンドルの後ろに座った時にどんなことをやってのけるか、私はそれを実際に見るまでは信じられなかったでしょう。しかも彼は、それをいと...
全文を読む