F1のテクニカルディレクターとはどのような仕事なのだろうか? レッドブル・レーシング・ホンダで同職を担うピエール・ワシェに話を聞いた。かの有名なF1公式フォトライブラリには楽しそうな写真が1枚存在する。写っているのは、2021年シーズン第6戦アゼルバイジャンGPで記録したレッドブル・レーシング・ホンダ移籍後初優勝を祝うチェコと、彼と同じようにシャンパンに濡れた姿でコンストラクターズトロフィーを手に持っているレッドブル・レーシングのスタッフだ。
そのキャプションには「チームメイトと優勝を祝うセルジオ・ペレス(レッドブル・レーシング・ホンダ)」と記されている。また、この瞬間を捉えている他の写真のキャプションでは、このミステリアスなチームメイトは「チーム全員の代表」と表現されている。チームが定期的に優勝できているなら、表彰台に上ってトロフィーを授与される栄誉は、チームメンバーと共有する方がより甘美になる。しかし、締め切りとの戦いに挑んでいる写真編集者にとっては、ドライバーと一緒に表彰台に上がるそのフロントエンドメカニックか電子系テクニシャンの名前をほぼ自力で突き止める作業は悪夢になる。しかし、今回の写真でチェコと一緒に写っていたのはどちらでもなく、レッドブル・レーシングで4シーズンに渡りテクニカルディレクターを務めているピエール・ワシェだった。ワシェはレッドブル・レーシング・ホンダの活動全体において非常に重要な人物だ。テクニカルディレクターを務める彼の名前がキャプションで触れられていないという事実は、世界で最も有名なスポーツチームの最上級職のひとつであるにもかかわらず、この役職がいかに目立たないのかを示している。ドライバーコンビとチームプリンシパルの名前は誰でも知っている。また、テレビ中継で無線を聞けるようになったことから、レースエンジニアとストラテジストの知名度も高まりつつある。しかし、テクニカルディレクターの場合は、本人がどのような立場を望むのかによって知名度が大きく変わってくる。彼らはF1の様々なテクノロジーを解説するYouTubeチャンネルのホストになれるが、その立場を回避することできる。世間で認知される、されないを問わず、チームにとって不可欠な歯車、それがテクニカルディレクターだ。ワシェは非常にユニークなルートでF1に辿り着いた人物だ。流体力学の博士号を所有している彼は、生体医工学(バイオメカニカル・エンジニアリング)を学んだのだが、彼が最初に専攻したのは血液、より具体的に説明すると、血流内の細胞だった。そして、この専攻が運良くミシュランに評価されたワシェは同社でタイヤと路面の関係の研究を任されたが、ミシュランがF1から撤退したタイミングでBMWザウバーへ移り、エンジニアリングを担当することになった。その後、2013年にレッドブル・レーシングへ移籍してビークルダイナミクス部門の部長となったワシェは、2018年から長年空席だった同チームのテクニカルディレクターを担当することになった。責任範囲テクニカルディレクターの役割は時間とともに変化している。F1チームがミニバス1台に収まっていた時代の技術部門はデザイナー1人、またはデザイナー1人にアシスタントが1〜2人ついている程度の規模で、テクニカルディレクターはまだ存在しなかった。全員が同じデスクを共有しているような規模の部門にディレクター職は必要なかったのだ。エイドリアン・ニューウェイのような1980年代にF1キャリアをスタートさせた人たちは、ひとりですべてをデザインしていた。彼らはノーズからリアウイングまでを含むF1マシン全体を任されていた。しかし、F1チームの規模が大きくなっていくと、分業化が進められていった。チーフデザイナーが登場し、アシスタントを何人も抱えるようになった。そして、F1マシンの組み立て作業がエンジニアリングへ進化していくと、テクニカルディレクターが登場してチーフデザイナーの仕事をチェックするようになった。また、近年はデザインだけですべてが決まるわけではなく、他の多くの部署と連動して開発を進めなければ競争力のあるF1マシンが手に入らなくなっている。F1マシンがそれぞれユニークなルックスを追求できた時代のテクニカルディレクターたちは、現在の同職からは失われてしまっている「達人としての名声」を勝ち取っていた。たとえば、ニューウェイ、ジョン・バーナード、ゴードン・マレーなどは、それぞれの作品に個性を持ち込めていた。一方、彼らのあとの世代のテクニカルディレクターたちは、管理能力と他人の才能を最大限まで引き出せる能力が評価の対象とされるようになった。しかし、その責任範囲は不明瞭だ。その証拠に、チームによって名称が異なっている。テクニカルディレクターと呼ぶ代わりにチーフテクニカルオフィサーと呼んでいるチームがあれば、エンジニアリング部門エグゼクティブ・ディレクターと呼んでいるチームもある。また、テクニカルディレクターのポストを複数用意して、シャシー担当とパワーユニット担当に分けているチームもいる。レッドブル・レーシング・ホンダのテクニカルディレクターは、デザイン、製造、テスト&インスペクション、トラックサイドなどエンジニアリング部門全体を常時チェックすることが責任範囲だ。近年のF1チームは貪欲に周囲を取り込む複雑な有機体で、片側からリソースと才能を取り込んで逆側からパフォーマンスを吐き出している。そのため、このようなチームの技術面を監督するテクニカルディレクターは、オーケストラの指揮者や人気レストランのヘッドシェフに喩えられるときがある。但し、彼らの仕事には自分の専門外の分野とのやりとりも必然的に含まれる。「テクニカルディレクターになる前は、ビークルダイナミクスの担当でした」とワシェは語る。「ビークルダイナミクスでも他の部署と協働するときがありましたが、今は他の部署との協働が責任範囲に含まれています。興味深いのは、進行管理の仕事はどの部署も同じですが、テクニカルディレクターはより広範なトピックを扱わなければならないところですね」ロールテクニカルディレクターの大きなロールのひとつが進行管理だが、彼らの多くは各専門分野の現場上がりのため、不慣れなデスクワークにかなりの時間を取られてしまう。しかし、彼らの進行管理には「チームの方向(ディレクション)の決定」が含まれている。なぜなら、F1チームの責任の多くはそれぞれが得意分野を持つ各部門のトップたちへ振り分けられるが、部門間でぶつかってしまっている要望や問題を上手く解決してチーム全体を正しい方向へ導...