2014年、当時のバックマーカーチーム、マルシアに初のポイントをもたらしたジュール・ビアンキの気迫の走りは、モナコの市街地に鮮烈な記憶を残した。それから10年──2014年日本GPの事故による彼の死を悼む日、F1.comが彼の元チームメイト、マックス・チルトンと共に、あの週末の舞台裏と彼がF1にもたらした遺産を振り返った。
チルトンとビアンキのモータースポーツの道のりは、F1で共に戦う前から交差していた。幼少期からヨーロッパ中のカートコースを走り、F1の関係者たちの目を引く存在だった。ビアンキ(左)とチルトン(右)、カート時代のチームメイトとして撮影された一枚「11歳か12歳くらいのときって、彼らがまるでF1ワールドチャンピオンみたいに見えるんだ」と、ビアンキを振り返るチルトンは語る。「比較対象はいつも彼だった。彼が基準だった。ほんとにすごいドライバーだった。」ビアンキは3〜4歳からカートに乗り始め、父親が所有するサーキットを自宅のように使っていたという。「バンビーノカートで何年も走ってたから、カートの扱いは本当に見事だったよ。」チルトンは2005〜06年に英Tカーズシリーズでいち早くフォーミュラデビューを果たした一方、ビアンキはカートでさらなる経験を積んだ後、2007年にフランスFルノー2.0に参戦し、初年度でタイトルを獲得。その後、2009年のFR3.5シリーズのモナコラウンドで再び対戦。さらには英F3でも数戦を共に戦った。GP2での活躍を経て、F1の門を叩いたふたり。ビアンキはニコラ・トッドのマネジメントの下、フェラーリのジュニアプログラムに所属し、フォースインディアでも複数のテストと金曜走行を経験。チルトンも同様にフォースインディアで初のF1テスト機会を得ていた。ビアンキとチルトンはF1デビュー前にフォースインディアでテストを経験2013年、チルトンがマルシア入りすると、当初のチームメイトは元F1王者ジャック・ビルヌーブになるはずだったが、この話は立ち消えに。そして数週間後、フェラーリ関係者を伴って姿を現したのがビアンキだった。「彼が来た瞬間から速かった」とチルトン。「それまでに何度もF1をテストしていたから、すぐにマシンを乗りこなしてた。彼は常に勝ってきたドライバーだったし、僕にとっては追いかける存在だった。」異なるジュニアカテゴリーを経て、F1で再びコンビを組んだビアンキとチルトンマルシアやケータハムといった2010年以降の新規参入チームはグリッドの後方で孤立しており、チーム内での競争が重要な意味を持っていた。「2013年は彼にやられっぱなしだった。だから2014年のオフは死ぬほどトレーニングした。プレシーズンのテストでは僕の方が速かったし、シーズン中もかなり五分五分になったと思う。」そして迎えた2014年モナコGP。ビアンキにとって地元といえるニース近郊のレースだった。土曜のフリー走行3回目では17番手につけ、ロータスのマルドナードやザウバーのグティエレスを上回った。2014年モナコ、狭くタイトな市街地を巧みに攻略するビアンキ予選でもマルシア/ケータハム勢を引き離す走りを見せ、イエローフラッグと渋滞がなければQ2進出も狙えたという。ギアボックス交換による5グリッド降格で最後尾スタートとなったが、レースでは序盤5周で15位に浮上。60周目にはついにポイント圏内10位へ。フェラーリのライコネンとマクラーレンのマグヌッセンの接触で8位にまで浮上した。その後、スタート位置の誤りによる5秒加算ペナルティに加え、セーフティカー中にその処理を誤ったとしてさらに5秒の加算が課されたが、9位でフィニッシュ。マルシアにとって歴史的な初ポイントとなった。ビアンキが駆った#17号車──このゼッケンは後に彼の功績を称え永久欠番に「本当は悔しかった」とチルトン。「F1ドライバーとして一番の目標はチームメイトに勝つことだから。僕はモナコが得意だったし、GP2でも表彰台に上がったことがあった。でもその日は全然マシンが思うように動かなかった。」「レース後にチーム代表のジョン・ブースから電話がかかってきて、”ごめん、君のマシンに間違ったスプリングが入ってた”って。バランスが悪かった理由が分かったよ。」それでも、後に起こった出来事を思えば、その感情は変わった。「その日、ポイントを取ったのがジュールで良かった。あの瞬間は彼のものだったし、彼にふさわしかった。僕じゃなくてよかったんだと思う。」小林可夢偉をラ・ラスカスで強引にオーバーテイクしたシーンは、特に印象的だったという。「彼じゃなければ、あの抜き方はできなかった。あれはまさに生まれ持ったレーサーの動きだ。」ブレーキング技術、ギャップの突き方、そしてレースデータの分析まで──チルトンはビアンキから多くを学んだ。チルトンはF1でビアンキと共に過ごした時間から多くを学んだ「ブレーキペダルの踏み方が本当に理想的だった。彼のデータを見て、自分も成長できた。」──しかし、その年の日本GPでのクラッシュにより、ビアンキのキャリアと命は絶たれることになる。「彼のことは今でも週に1回は思い出すよ」とチルトン。「人生って何が起こるか分からない。本当に一瞬で変わってしまうんだ。」ビアンキの教え子にあたるルクレールは後にF1へ──現在はフェラーリで活躍中ビアンキの教え子であり名付け親でもあるシャルル・ルクレールがF1で成功している姿には、特別な感情を抱いている。「彼とは会ったことがないけど、見ているとまるでジュールが蘇ったかのようなんだ。顔も性格も走り方も似てるし、フェラーリにいるところまで同じ。」チルトンが今も大切にしているのは、あの悲劇のレースの直前、ドライバーズパレードで撮った1枚の写真だ。「彼は雨と寒さが大嫌いでね。傘をさして笑ってた。僕がその姿を写真に撮ったら、笑いながらこっちを見てた。それが最後のやり取りになった。」「ジュールは、心からモータースポーツを愛していた。彼は、愛するレースの中で逝ったんだ。」#JB17
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