デイモン・ヒル F1王者直後にウィリアムズ放出「シューマッハとドイツ市場が影響」
1996年のF1ワールドチャンピオン、デイモン・ヒルが、タイトル獲得直後にウィリアムズから放出された背景について、30年を経て自身の見解を明かした。

ヒルによれば、当時のウィリアムズが見据えていたのは単なるドライバー交代ではなく、ミハエル・シューマッハの活躍によって急成長していたドイツ市場、ハインツ=ハラルド・フレンツェンの起用、そして後に実現するBMWとの提携までを含めた長期的な戦略だったという。

王者になっても変わらなかったウィリアムズの決定
F1ワールドチャンピオンの獲得は通常、ドライバーのチーム内での立場を決定的なものにする。しかし、1996年のデイモン・ヒルには当てはまらなかった。

ヒルは1996年にウィリアムズ・ルノーを駆って自身初のF1ワールドチャンピオンを獲得したが、チームはシーズン終了を待たずして翌年のラインアップからヒルを外すことを決めていた。

フランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドが選択した1997年の布陣は、ジャック・ヴィルヌーヴとハインツ=ハラルド・フレンツェンだった。

そのため、ヒルはディフェンディングチャンピオンでありながら1997年にアロウズへ移籍。前年にタイトルを争ったトップチームから、一転して後方グリッドを走ることになった。

当時、この決定はF1界に大きな衝撃を与えた。ヒル自身も、なぜ自分がチームの構想から外されたのかを完全には理解できていなかったという。

転機は1995年「将来を考える必要がある」と判断
F1公式サイトの特集で、現在ではウィリアムズがフレンツェンを選んだ理由を理解しているのかと問われたヒルは、その起点はタイトルを獲得した1996年ではなく、その前年にあったとの考えを示した。

「1995年だったと思う。1995年に起きたことを見て、フランク・ウィリアムズとパトリック・ヘッドは、おそらく『将来について考える必要がある』と判断したんだと思う」

1995年、ヒルはウィリアムズでシューマッハとタイトルを争ったものの、ベネトンのシューマッハに敗れた。

ヒルは、その結果がウィリアムズに将来のドライバーラインアップを再検討させるきっかけになったと考えている。

だが、後になって振り返ると、そこにはドライバーの純粋な速さや成績だけでは説明できない要素があったという。

シューマッハが変えたドイツのF1市場
ヒルが重要な要素として挙げたのが、ミハエル・シューマッハの存在だった。

シューマッハの成功によってドイツ国内でF1人気が急速に高まり、テレビをはじめとするメディアや企業から大規模な投資が流れ込んでいた。

「時間が経ってから分かってきたことのひとつは、ミハエルの存在によって、F1の市場がドイツへ向かう大きな動きがあったということだ」

「テレビにも大きな投資が行われて、ドイツという市場そのものが重要になっていた」

シューマッハは1994年と1995年にベネトンでF1ワールドチャンピオンを獲得。ドイツ人として初めてF1王者となったことで、母国に巨大なF1ブームを巻き起こしていた。

その状況では、ドイツ人ドライバーを擁すること自体に大きなマーケティング上の価値が生まれていたとヒルは考えている。

「だから、F1のマーケティングという意味でもドイツ人ドライバーを持つことが重要だった。そして当時、フレンツェンは少なくともスポーツカー時代にはミハエルと同じくらい速かったと言われていた」

フレンツェン起用とBMWへの布石
ハインツ=ハラルド・フレンツェンはシューマッハと同世代のドイツ人ドライバーであり、若手時代からその才能を高く評価されていた。

ヒルは、ウィリアムズがフレンツェンを単なる後任ドライバーとしてではなく、ドイツ市場へ接近するための重要な存在として見ていたのではないかと推測する。

そして、その先にはBMWとの関係構築もあったという。

「彼らはフレンツェンを将来につながる存在として考えていたんだと思う。それに、将来的にはBMWのパワーユニットという可能性もあった。それは最終的に2000年に実現した」

実際、ウィリアムズは2000年からBMWとワークス提携を開始。ウィリアムズBMWとしてF1に参戦し、2000年代前半にはフェラーリやマクラーレンとタイトルを争う存在となった。

ヒルは、1990年代半ばの段階ですでに、ウィリアムズがドイツとの関係を強める長期戦略を描いていた可能性があるとみている。

フランク・ウィリアムズが語った「チームの未来」
ヒルが放出を告げられた際、フランク・ウィリアムズから示された説明は極めて簡潔なものだった。

「フランクから僕を放出すると言われたとき、彼は『チームの未来について考えなければならない』と言った。それが彼の答えであり、言い訳だった」

ヒルにとって、その言葉は簡単には受け入れられなかった。

「それで僕は『僕は未来じゃないのか。なぜなんだ?』と思った」

しかし、年月が経ってから当時の状況を調べ直したことで、ヒルはその「未来」という言葉が何を意味していたのかについて、自分なりの答えにたどり着いた。

「何年も経ってから少し調べてみた。そして、BMWへ向かう動きは戦略だったんじゃないかと思っている。そのためにはドイツ人ドライバーが重要だったんだと思う」

「1996年に何をしても関係なかった」
ヒルにとって最も皮肉なのは、1996年の成績が自身の将来を左右する材料には、すでになっていなかったという点だ。

ウィリアムズはヒルがタイトルを獲得する前から、1997年のドライバーラインアップを事実上決めていた。

「基本的には、僕が1996年に何をしようと関係なかった。フランクはすでに1997年に走る2人のドライバーと契約していた。だから僕が入る余地はなかったんだ」

つまり、ヒルが1996年にF1ワールドチャンピオンになったとしても、その結果によって契約が覆る可能性はほとんどなかったということになる。

ヒルは最終戦日本GPで勝利を挙げ、年間8勝を記録してタイトルを獲得。しかし、それでもウィリアムズで翌シーズンを戦うことはできなかった。

シューマッハはヒルを成長させた最大のライバル
一方、ヒルはシューマッハについて、ウィリアムズ放出につながった時代背景を生み出した存在としてだけでなく、自身をレーシングドライバーとして成長させた最大のライバルだったとも振り返っている。

「彼は彼だった。それだけだと思う。競争相手だった」

「人生のあらゆる細かい部分にまでプレッシャーをかけてくるような存在だった」

そして、シューマッハとの激しい戦いがなければ、自分自身の限界を知ることもなかったと語った。

「これは言える。ミハエルがいなかったら、レーシングドライバーとして自分がどこまで行けるのかを知ることはなかったと思う」

ヒルとシューマッハは1994年と1995年に激しいタイトル争いを展開。特に1994年は最終戦オーストラリアGPまでタイトル争いが続き、両者の接触によってシューマッハの初タイトルが決まるという劇的な結末を迎えた。

デイモン・ヒル(1997年)

王者ヒルはアロウズへ ウィリアムズは連覇
1997年、ヒルはカーナンバー1を付けてアロウズから参戦したが、前年とは対照的に厳しいシーズンを過ごした。

17戦でポイントを獲得したのは2レースのみ。それでもハンガリーGPでは非力なアロウズ・ヤマハで首位を快走し、終盤のマシントラブルによって勝利こそ逃したものの2位表彰台を獲得した。

一方、ヒルを放出したウィリアムズは1997年もタイトル争いをリード。ヴィルヌーヴがシューマッハとの争いを制してドライバーズチャンピオンとなり、チームはコンストラクターズタイトルも獲得した。

フレンツェンもドライバーズランキング2位となり、少なくとも競技成績という面ではウィリアムズのドライバー交代は結果につながった。

しかし、前年のワールドチャンピオンをそのまま放出するという決断は、30年が経過した現在もF1史に残る非情な人事のひとつとして語られている。

ヒル自身は今、その背景には1995年の敗北だけではなく、シューマッハによって急成長したドイツのF1市場、フレンツェンの存在、そしてBMWとの将来的な提携を見据えたウィリアムズの長期戦略があったと考えている。

1996年に世界王者になっても覆らなかった決定。その理由を示すフランク・ウィリアムズの「チームの未来」という言葉は、ヒルにとって30年を経てようやく具体的な意味を持つものになった。

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カテゴリー: F1 / ウィリアムズ・レーシング / ミハエル・シューマッハ